2017年9月18日月曜日

今日のソ連邦 1988年12月1日 第23号

 どもです。とんでもなく間が開きましたが、何事もなくヌケヌケと生きております。まぁ、スキャナの調子が悪いとか、PCのOSを入れ替えたりとか、暑いとかミサイルとか台風とかありましたが。

 さて、今回の今日のソ連邦はなんともキャッチーな表紙です。コスモリョート・ブランにエネルギア・ブースター。打ち上げ準備中の写真です。
 何事も秘密主義のゾ産では、こうしたプロジェクトは成功してから発表するのが決まりでした。ましてシャトルは打ち上げるだけでは駄目で、無事に帰還しなくてはいけません。この段階での写真公開は極めて珍しいと言えます。もちろん無事に打ち上げは成功し、帰還も果たしました。しかも無人操縦で着陸までやってのけたのです。

 ちなみに「ソ連のシャトルはアメリカのコピー」という記事を時折、目にすることがありますが、1965年に撮影された写真ではガガーリンと共に風洞モデルが写っており、ソ連でもかなり早い時期から研究されていたことがわかっています。

 ソ連はそれまで「ソユーズ・ロケットの輸送効率はシャトルを上回っており、シャトルを開発する必要はない」と主張しており、この時まで実現しなかったのも、優先順位が低かったものと思われます。実際、ブランはこのたった一度きりの飛行でお蔵入りしてしまい、アメリカのシャトルも事故が続いて博物館送り。現役はソユーズ・ロケットのみという現実を見ると、米ソの違いなく、シャトルは泡沫の夢だったのだなぁと寂しい気もします。
 特に打ち上げどころか、最低限のメンテナンスの予算すらないまま、建物と一緒に崩壊してしまったブランとエネルギアの哀れな姿は泣けてきます。 
 もっとも、この頃からソ連邦そのものの土台も徐々に傾き始めますから、宇宙開発どころじゃなくなってくるのですが。
 
 本紙では1988年1~9月期のソ連経済全般の指数が掲載されています。どれも横ばいか増加で、住宅供給戸数が大幅なマイナスになっているぐらい。
 しかし、「工業生産高」が1986年に対して1987年は3.6のプラス。1987年に対して1988年は4.3のプラスといった具合で具体的な金額はわからず、そもそも指数なら基準となる「1」はいつの話なのか、ということもわかりません。
 もしかすると1917年を「1」としている可能性がマジでありますが。 

 まぁソ連国家統計委員会にかかれば、どんな悲惨な経済指数も大勝利の業績にすることができるらしいのですが、それでもいくつかの恐ろしい数字を見つけることができます。

 上半期に国家検査総局によって検査された食肉の5.6%、ソーセージ製品の6.3%、マーガリンの10.9%、砂糖と乳製品の4.3%、魚・果実・野菜の缶詰の10%が不合格だったとか。食糧事情は一向に改善しないどころか、ますます悪化していくのが見て取れます。

 他にも国民経済コンプレクスの活動指数なるものもありますが、たとえば機械製造コンプレクスの製品供給契約の遂行率が98%で、遂行できなかった企業の割合が47%。利潤計画の遂行が104.1%のプラスで、実質成長率は6.3%のプラス。
 ・・・・・・頭がおかしくなりそうです。
 ちなみに労働者・職員の月平均貨幣賃金は1987年の201ルーブルに対して、214ルーブル。コルホーズ労働員のそれは147ルーブルに対して155ルーブルと発表されています。

 次の話題はリトワ共和国から。現在のリトアニア共和国のことです。画像の街はスネチクス市。1970年代末期に建設された都市で、8キロほど離れたイグナリナ原発の従業員と建設関係者、その家族のために作られた街です。これはチェルノブイリ原発とプリピャチ市の関係と同じで、こうした歴史的・文化的背景を持たない原発城下町はソ連の至るところにありました。
 イグナリナ原発はチェルノブイリと同じRBMK-1500型原子炉が2基稼働しており、3号基の建設もすすめられていました。しかし、チェルノブイリ原発事故(1986年)を受けてリトワ共和国閣僚会議は予算支出を一時停止します。(この記事の時点では建設延期というわけですが、翌89年に正式に建設中止が決定されます)
 ちなみに1号機と2号機はそのまま操業を続け、ソ連崩壊後もリトアニア共和国の管轄下で電力を供給しますが、EU加盟交渉の過程で廃炉が決定。2004年と2009年に運転を停止しています。現在は隣接地にヴィザナギス原発の建設が予定されていますが、様々な情勢変化の中で決定は二転三転し、果たして本当に完成するのかは怪しい状況です。

次はクリスタルガラスの工芸品で有名な街の記事。モスクワの東230キロにある人口8万の小さな街の名は「グーシ・フリスタルヌイ」。ずばり「グーシ河畔のクリスタルガラス」という名前です。ロシアで最初にクリスタルガラスの生産を初めて街でもあります。
 16世紀半ば、モスクワの商人アキム・マリツォフは、豊富な珪砂とアカマツの大森林に目をつけ、ここにガラス工場を建設しました。グーシ・フリスタルヌイはこの時、職人たちを住まわせた小さな集落に付けられた名前です。会社名がそのまま社宅になってるようなものでしょうか。といっても本格的なガラス製品はほとんど作られず、メインは馬車のランプ用のガラスでした。
 19世紀に入るとロシア皇帝から製品に国章を付け、宮殿に納品することが認められます。そして1883年にシカゴの万国博で銅メダルを授与されると、一気に生産が拡大します。ソ連になっても貴重な外貨収入源として重視され、日本にも輸出されています。

次はソ連でも人気の日本文学について。今回は川端康成をめぐる日ソ共同シンポジウムとからめた記事です。この記事の原文は日本語で書かれており、執筆者のキム・レーホ氏はシンポジウムのソ連側代表団長です。プロフィールには「キム・レチュン」という名前も併記されており、朝鮮系ソ連人の方のようです。
 ソ連では1981年から「現代小説の巨匠たち」というシリーズが刊行されており、川端康成の作品集はその一冊。ロシア語だけでなく、ウクライナ語、ラトビア語、リトワ語、エストニア語、アルメニア語、グルジア語、アゼルバイジャン語、キルギス語に翻訳された短編集も刊行されています。それらすべてを合わせた総部数は100万部に達するとのことで、読書好きのお国柄が伺えます。画像は様々な国で刊行されてる表紙や挿絵を集めたもの。「いかにも」なデザインから抽象的なものまで様々です。
 シンポジウムでは川端文学の成り立ちや背景について専門的な議論がかわされましたが、翻訳の問題についても意見交換が成されました。たとえば雪国の冒頭。
 原文では
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった」ですが、
 記事ではこの文のロシア語訳を再び日本語に訳し直したものが紹介されてます。
「二つの地方のくにざかいにある長いトンネルを抜けて汽車は信号所に止まった。ここから雪国が始まる。夜が明るくなってきた」
 となるのだそう。それまで国境は「コッキョウ」と読まれていましたが、「クニザカイ」と読むことで、その語義を理解するよう務めたとのこと。
 しかし、その一方でキム氏は「この訳には時間の感覚が欠けている。国境の長く黒いトンネルを抜けたその瞬間に現れた雪国の世界の瞬間美が打ち消されてしまっている」とも批判してもいます。「信号機が止まった後にみる雪国の感覚はまた異なったもので、ここでは散文詩が蒸発してしまっている」と。なるほどニュアンスはだいぶ違います。どこの国でも翻訳は大変なのですね。

最後はアレクサンドル・グゼーエフの「ソ連極東の四季」という絵画。ロシアでは一年は夏から始まります。新学期も9月から。
 ところでこのグゼーエフという人、別に巨匠というわけではなく、有名というわけでもありません。ハバロフスク出身のグゼーエフ(40)は同市の美術家同盟にも登録されていない人物。といってもアマチュアではなく、芸術生産工房でデザイナーとして働いています。商店のショーウィンドーをデザインし、看板のイラストを描き、先輩画家のためにカンバスの下塗りも引き受ける。要するに職人なわけです。
 しかも本業以外で描いた絵は全部タダ。「タクシー運転手になった方が稼げる!」と主張する奥さんから離婚(これだけで党員じゃないこと確定)されてしまいますが、本人は黙々と絵を描いています。

 グゼーエフはノボシビルスク州スズノ村出身。5才の時から絵を描き始め、中等学校高学年の時に地区文化会館の画家イワン・コフコの弟子になります。中学卒業後は徴兵されて極東の部隊に配属されますが、ここでも絵を描き続けます。それが将校たちの目に止まり、歩兵中隊ではなく将校クラブの美術主任に回されます。
 除隊後も文化会館で「実入りの悪い仕事」に従事しますが、ある時、転機が訪れます。先輩の画家が病気になり、地元の郷土博物館に収めるはずの絵が描けなくなってしまったのです。グゼーエフは例によって無償で代役を引き受けますが、その絵がソ連共産党ハバロフスク地方委員会の財務部長ミハイル・シェミシャンの目に止まります。
 彼の依頼で委員会の建物に飾る絵を描くわけですが、それがここで紹介されている「四季」というわけです。彼の絵はその後、キューバのラウル・カストロや中国の政府代表団にも贈られるほどに。ソ連ではちょっと珍しいタイプのサクセス・ストーリーです。

では、今回はこんなところで。
でわでわ~。


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