2013年4月19日金曜日

今日のソ連邦 第3号 1987年2月1日


今日のソ連邦、1987年の3号です。
表紙を飾るのはウズベク共和国で当時建設中だった太陽炉のコンセントレーター(集光装置)。手間の白と黄色のタワーに集熱機、すなわち太陽炉の本体があるというわけです。

ところで、ウズベク共和国に限ったことではありませんが、ソ連崩壊後に独立した中央アジアの国々の多くが「~スタン」という国名に変更されています。
これはペルシャ語で「~の場所」とか「~の土地」という意味だそうで、国家の独立性を強調しているものでしょう。といってもウズベキスタンの公用語がペルシャ語というわけではないんですけどね。
もちろん、このブログではソ連時代の表記に基づいて記述しております。

話を戻しますと、この太陽炉はウズベク共和国の首都タシケントに近い、テンシャン山脈の麓に建設されたもので、正式名称を「研究・生産冶金コンプレクス」と言います。
「コンプレクス」とは複合施設のことでソ連の科学・産業面のニュースでは、非常に多く目にする言葉です。日本だと「コンプレックス=劣等感」みたいなイメージがありますが、これもそもそも誤用で、精神・心理学においてもコンプレクスは「感情複合」を意味し、特に劣等感に限定された用語ではありません。

また脱線しました。
この冶金コンプレクスは太陽光線を集中させることで炉内に摂氏3500度もの高温を作り出せる施設です。焦点が合う場所に材料を置くだけで自然に溶けてくれるので「るつぼ」が不要で、環境にも特別な制約がありません。さらに焦点距離からズラすだけですぐに冷却装置に放り込むこともできるので、瞬間的な冷却が可能。
これらの利点によって高純度の合金を大量に作ることができる他、高熱にさらされる宇宙船の再突入カプセルに使われる材料などを試験することもできます。

鍵となるのは当然、太陽。
この地方は年間300日以上の晴天日があり、一日あたり8時間から10時間の連続稼働が可能と見積もられています。
巨大な帆を思わせる集光装置の鏡面は面積1000平方メートル。この鏡に向かって、62枚のヘリオスタットが配置されています。ヘリオスタットは1枚あたり50平方メートル。たえず太陽を追尾し、光エネルギーを集光装置へと反射させます。

この集光装置も一般的にはパラボラ型が主流ですが、ここでは円錐形の複雑な形をしたものが採用されています。集光の効率がよく、構造が簡単で、施設全体を軽量化できるメリットがあります。ただ、光の入射角度には慎重な計算が必要で、このタイプはウズベクの他はフランスに1基あるのみなのだそうです。
なお、この太陽炉の現在の様子はこちらで見ることができます。
案の定というか、やっぱり使われてる気配がないなあ・・・。


そのウズベク共和国ですが、実は地震国でもあります。というわけで、この号ではソ連における地震予知についての記事もあります。

かつてはソ連の科学者たちも、詳細なデータを集めて分析すれば、かなりの確率で地震が予知できるはずだと思っていた時期があったそうです。
しかし、時間とともに科学者たちの態度は懐疑的になっていき、現在では地震予知の局限化が主流になっているとのこと。つまり地震が発生しそうな場所を特定し、最大震度を見積もり、次の地震発生までの時間を予測するというもの。

ソ連は、このやり方で効果が上がっていると主張していますが、要するに危険な場所を避けて都市計画やインフラ整備をするというもので、広い国土面積があるからこそできる芸当です。もちろんソ連だって耐震建築やら、さまざまな防災計画などが研究・立案されています。それがどれぐらいの効果を上げたかは、別の機会にご紹介するとしましょう。

ところで、今回はやたらウズベク共和国関連の記事が多いです。
こちらは共和国を紹介する記事。中央の女性たちが手にしているのはウズベクで「白い黄金」と呼ばれる綿花。ウズベク社会主義共和国の国章にも使われています。
農業国で野菜や果物に恵まれ、ブドウの品種だけでも150種類におよび、炊き込みご飯のピラフ(プロフ)、ウドンによく似たラグマンなどを食べます。

次の特集は、いきなりロシアに戻ってプーシキンです。1987年はプーシキン没後150年ということで、ソ連でも大きな盛り上がりを見せました。というか、ロシア人のプーシキン好きは異常。
決闘で受けた傷がもとで亡くなったというのもドラマチックで、ロシア人を引きつけてやまないのでしょうか。

ちなみにプーシキンの玄孫にあたる人は、日本文化の研究家なのだそう。セルゲイ・クリメンコさんという方で、大祖国戦争ではモスクワの高射砲部隊に所属。終戦後はモスクワ外語大学の日本語学科に入学し、その後はモスクワ放送の日本部で定年まで務めたのだとか。
意外なところで意外なつながりがあるものです。
もっとも、プーシキンの子孫は200人を越えてるそうなので、ひとりぐらいはこういうこともあるのかな。

最後はソ連宇宙開発の父「セルゲイ・コロリョフ」の特集。
世界初の人工衛星スプートニクを打ち上げ、世界初の有人宇宙船ボストークを打ち上げ、死の直前までソ連の宇宙開発をリードし続けた人物で、こちらは生誕80周年です。

このコロリョフという人、相当にアクの強い人物であることが知られています。さすがのソ連でもこの点を認めないわけには行かないようで、このあたりが普通の人物伝とは違うところです。


コロリョフはつねに一番でいたがった人であり、功名心が強く、高圧的だった。
それは全てに・・・話し方、動作、歩き方にさえ感じられた。
だが、私たちが世界古典文学の無数の例によって、
否定的な資質としてステレオタイプ化している功名心も、高圧的な態度も、
コロリョフの個性の中にあっては、それを否定的なものと呼べないように奇妙に変形しているのだった。

うむ。イヤな奴だけど褒めないわけにはいかない筆者の苦悩が伝わってくる文章です。
ただ、彼は手にした権力を個人的な目的のために使ったわけではなく、あくまでも計画を前進させるために行使したのは事実のようです。プロジェクトを進めるためには徹底的にトップダウンの方式を貫かないと、ソ連では何も進まないことを自覚していたのでしょうか。
もちろん権限には責任がともないます。

彼はしばしば責任の最高の措置を自ら引き受けた。
負荷にぴったり100パーセント耐える、すなわち強度に余力が無いユニットに関して
赤えんぴつで書類に断固「可!」と書けるのは彼だけだった。

さらにはこんなこともあったそうです。
月探査機の着陸システムを検討する会議で、地質学者や天文学者も交えての議論。
月の表面は固いのか、柔らかい塵に覆われているのか、
それによって仕様も設計も部品の強度もすべてがちがってきます。
当時はまだアポロが着陸する前なので、誰も月面がどうなっているのかはわかりません。
会議はすっかり行き詰まってしまいます。
もし柔らかければ、探査機は塵の中に沈み、固ければ着陸装置は壊れてしまう。
誰もが恐れて、書類にサインしようとしません。
しかし、コロリョフは、出るはずのない結論をいつまでも待つような人物ではありませんでした。

「それでは、月は固いという前提で機械を設計しよう」
「でも……」と専門家のひとりがさえぎった。
「誰がそれを請け合うことができるのですか?」
「私だ」とコロリョフは簡単に答えて、白い紙を取ると勢いよく書いた。

“月は固い。セルゲイ・コロリョフ ”


今回はこんなところで。
ゲームラボのコラムも引き続き、よろしくお願いしまーす。
でわでわ。


2013年4月12日金曜日

今日のソ連邦 第2号 1987年1月15日

今日のソ連邦、1987年の第2号です。
前回は1号であるにも関わらず、新年に関連した記事がほとんどなかったのですが、こちらの号には駐日ソ連大使のソロビヨフさんの新年のご挨拶が載っています。どうやら大使館の仕事始めはこの号からのようです。

続くページには「米国のSALTⅡ逸脱に関するソ連政府声明」なるものが載っています。SALTⅡとは「第二次戦略兵器制限交渉」で、要するにお互いの核兵器を減らそうという取り組みです。
ソ連政府によると、アメリカは1986年に長距離巡航ミサイルを搭載できる131機目の爆撃機を実戦配備した際、その埋め合わせとして同等の能力を持つ「核兵器運搬手段」を解体しなかったとのこと。
これによってアメリカは、条約で1320基と決められた数を上回る核兵器運搬手段を持ったことになり、けしからんというわけです。もっともアメリカは「SALTⅡ」に調印こそしましたが、その後のソ連のアフガン侵攻がけしからんということで議会が批准を拒否。1985年には効力を失っています。 どっちもどっちという気がしますが、この手の綱引きは冷戦時代ではしょっちゅうでした。
ちなみに核兵器の削減交渉で問題になるのは核弾頭の数ではなく、それを運ぶミサイルや航空機、潜水艦などです。やらないよりはマシですが、この手の交渉が成立しても、弾頭自体は全く減っていないどころか、逆に増えていた現実があります。

次は「党地区委員会の第一書記」。
モスクワ北西部にあるゼレノグラード市(モスクワ市の飛び地)の地区第一書記、アナトリー・ラリオノフ氏の仕事ぶりを紹介した記事です。
ソ連は共産党一党独裁の国なので、行政府と政党が一体となっています。しかし、市役所には市長を始めとする市の職員がおり、共産党がどんなポジションで何をしているのかはわかりにくいものがあります。
実際、外国の読者からは「学問には学者が、工場には労働者が、管理部門には権限のある指導者がいる。では共産党は何をしているのだ?」との疑問が寄せられていたようで、記事はこれに答えたものとなっています。
ラリオノフ第一書記の言葉によると、「人体には脳や骨格、筋肉や心臓がある。社会も同じだ。しかし、人間を人間たらしめているのは、創造性や意志を育む精神的基盤である。共産党はまさに社会の精神的基盤としてすべてのことに責任を負っている」とのこと。
おー、なんかいいこと言ってる気がする。

しかし、現実はというとなかなか大変なようです。
アパートの順番待ちはソ連では珍しくもありませんが、そこでラリオノフ第一書記は、大祖国戦争の退役軍人たちの入居を優先するよう指示します。
また、工場を定年退職した老コンスタンチノフが、引退後の楽しみとして果樹園用の土地(当然、数に限りがあります)を労働組合に申請しますが、気難しい性格だったために仲間との折り合いが悪く、同僚たちは「あんな奴に土地を工面する必要はない」と一悶着。
そこで第一書記は老コンスタンチノフと面会し、彼の実直な性格や現役時代の功績を総合的に判断して、土地申請を受理するように働きかけます。
また、ある時はスーパーマーケットの遊歩道がきちんと清掃されていないということで、清掃員たちを適切に指導。さらには、なぜ日当たりが悪く、冷たい風が吹き抜けるアバートの中庭なんかに子供の遊び場を設置したのか?と建設管理局にネジ込み、同アバートに住む市民からは牛乳が配達されてこないとの苦情を受けて配給ステーションにも足を運び・・・。

なんかプリキュアのマナちゃんみたいなことやってますよ生徒会長みたいなことやってますよ、ラリオノフ第一書記。とはいえ、庶民的で人間臭い問題を抱え込んでるのは親しみが持てます。共産党幹部といっても、地区レベルではこんな感じなのですね。

その流れというわけではありませんが、モスクワの第370幼稚園の記事。ソ連における就学前教育は3種類あり、0歳児から3歳未満を預かる保育園、3歳から7歳未満を預かる幼稚園、両者が一体となった保育幼稚園があります。
日本でも幼稚園や保育園、保育士の数が足りないことが問題になっていますが、ソ連でも同じ問題に直面しています。もっとも全ての親が子供を幼稚園に入れるわけではないようです。
夫婦共働きが当たり前のソ連ですが、たとえ専門家がいる幼稚園であっても子供を他人に委ねたくはない、と考える人もいるようで。
ちなみにカリキュラムは身体を丈夫にする体操、社会性を育む、集団でのお遊戯、情操教育のための音楽やお絵描きといった具合で、日本とあまり変わらない感じです。
第370幼稚園は朝の7時30分から夜7時30分までの12時間保育体制。家庭環境によっては一日3食をここで食べる幼児もいるようで、給食制度も充実しています。ある日のメニューは
朝食・オートミール、ココア、バター&チーブのオープンサンド。
昼食・トリ肉入りスープ、カテージチーズのダペカンカ(ハンバーグ風に焼いたもの)、フルーツのコンポート、
昼寝のあとのおやつを挟んで、夕食・ケフィール(ヨーグルト)、ビーツのコロッケ、プラムとサワークリーム。
夕食が軽めですが、ロシアでは昼食が正餐で、これは幼稚園でも軍隊でも同じです。

さて、前回は省略してしまったのですが、この年からソ連を構成する15の共和国の特集記事が連載されてます。第1回はロシアでしたが、今回はウクライナ。
ロシア、ウクライナ、ベラルーシをまとめて東スラブと呼びますが、この3つの共和国の区別がキチンとできれば、いっぱしのソ連通です。自分は、ちょっと自信がないなあ。ともあれウクライナが美人の産地であることは知っています。あとはボルシチにニンニクが入ること、かな?
農地に恵まれており、一面のヒマワリ畑が有名。しかし、一番名高いのはサクランボの果樹園で、これがないとウクライナの農村とは言えないんだとか。
道沿いにはトーポリ(セイヨウハコヤナギ)が植えられ、広々としたステップが地平線まで広がります。遠くにはカルパート山脈、その前を流れる銀色のきらめきはドニエプル河、というのが典型的なウクライナのイメージなのだそう。えーと、よもや4号戦車と村を焼くドイツ兵を連想するような読者は、このブログにはおりますまいな?

最後は「ソ連アニメ映画の50年」という記事。
1月に「おーい、待てぇ!」を紹介しましたが、今回はチェブラーシュカとか、ノルシュテインとか、おなじみの名前も出てきます。
今では日本の「アニメ」も通用することが多いですが、本来のロシア語ではアニメーションは「Мультипликация=ムリチプリカーツィヤ)」と言います。これはラテン語の「ムリチプリカチオ」が語源で「増やす」という意味なのだそうです。一枚の絵を動かすためには沢山の動画が必要なわけで、この辺からきたのかもしれません。
ソ連におけるアニメの歴史は1920年代にさかのぼり、1922年にニュース映画「キノ・プラウダ」に短い風刺アニメを入れるようになったのが最初とされています。この頃はまだペーパーアニメだったようですが、1934年に「全ソ国立映画大学付属実験アニメーション工房」が設立されると、セルロイド製の動画用紙が使われ始めます。

さて、日本もそうですが、ソ連も最初の頃はディズニーの強い影響を受けていたそうです。しかし、アメリカ流のアニメが主流になることに危機感を覚えた当時の作家たちは、アニメでも哲学的メッセージやドラマ性、叙情性を追求すべきという方向に向かっていきます。
1936年6月10日、「全ソ・アニメ映画スタジオ設立に関する映画写真産業総局の指令」が公布。ここにソ連最初のアニメ専門会社が誕生します。ソ連じゃ、アニメ会社も物々しい手続きで設立されますな。
2枚目の画像はソ連の第一線で活躍するアニメーターたち。スタジオの雰囲気もそうですが、あちらのアニメ製作スタッフもなんとなく日本の同業者と似た雰囲気をかもしだしてます。

今回はこんな感じで。
ゲームラボの連載も引き続きよろしくです。

でわでわ~。