2017年2月19日日曜日

艦船模型の展示会 ~2017~

毎年恒例のミンダナオ会展示会です。今回のテーマは「冷戦期の艦船」。
第二次世界大戦末期のヤルタ会談から1989年のマルタ会談における
冷戦終結宣言までを世界各国の海軍艦艇で振り返るという企画です。
といってもメインはやはり米ソ超大国の海軍がメインです。
※2017年2月20日、追記編集。
まずはひときわ目立つフルハル・モデルから。ウォーターラインに対する用語
で船底からスクリュー、舵なども再現した艦船模型のことです。まずはアオシ
マのミンスク。多くの艦船模型ファンから惜しまれつつ閉店したNAVY BARの

オーナーの手になる作品です。自分もこいつをじっくり眺めながらグラスを傾
けた思い出があります。

ミンスクがソ連空母の代表格ならアメリカはもちろんエンタープライズです。
キットは近代化工事の最終仕様をキット化したものです。日本にも馴染みの
深い空母でしたが、現在は退役してしまいました。でもアメリカを代表する
有名な艦名ですから、また別の艦に受け継がれることでしょう。


冷戦時代とは、すなわち核の時代です。中でも戦略ミサイル原潜は極めて
重要な戦力でした。これは「レッドオクトーバーを追え!」で有名なタイフーン
級。ソ連海軍ではアクラ型と呼んでいました。ドラゴンモデルのキットで
艦首の潜舵を動かすと魚雷発射管から魚雷がヒョコヒョコ飛び出すギミック

がついています。ちなみにミサイル発射の場面はオリジナル。
なお実際のタイフーン級はスクリューを囲む巨大なシュラウドリングを備えて
います。しかし、当時はソ連艦艇の喫水線下の形状なんてわかるはずもあ

りませんでした。

とはいえ! モノには限度があります。これはミンダナオ会に展示
されたものではなく、記憶を頼りにネットで見つけた画像ですが、
スクラッチではありません。一体、何の資料を見たのか見当も
きませんが、こんな謎の物体がくっついたタイフーン級の模型
販売されていました。うーん・・・謎・・
・・・・。

続いてはタイフーン級のライバル、アメリカのオハイオ級です。ソ連に比べ
ると、なんてすっきりしたデザインなのでしょう。乗ったことはありませんが、
居住性も給料もこっちの方がいいに違いありません。

























































これはソ連初の原子力潜水艦。西側ではノヴェンバー級として知られてい
ます。アメリカに追いつくため、かなりムチャな設計をしており、お世辞にも
安全性が高いとは言えませんでしたが、ソ連海軍の潜水艦として、初めて
北極点に到達するなどの偉業を達成しました。この航海の
艦長だったウラジ
ーミル・チェルナヴィンは、後にソ連最後の海軍司令官となります。









一方、アメリカもアメリカで血迷っていました。潜水艦から発射できる有翼
の巡航核ミサイル「レギュラス」を開発し、配備していたのです。冷戦とは
全面核戦争の一歩手前の状況に過ぎず、よくもまぁ、こんな時代を人類は
無事にくぐり抜けてきたものです。




























ミサイル巡洋艦キーロフ級。全部で4隻作られましたが、現在は4番艦の
ピョートル・ヴェリキーだけが稼働しています。ステルス性を考慮した設計で
レーダー反射面積(RCS)は駆逐艦程度しかないと言われています。











こちらは日本の海上自衛隊。護衛艦「あまつかぜ」です。ミサイルの百貨店
みたいなキーロフ級とは比較になりませんが、日本で最初に艦対空ミサイル
装備した画期的なフネです。





















アメリカの原潜シーウルフです。静粛性、速力、潜航深度など、あらゆる面
で世界最強という高性能艦ですが、お値段の方も世界最強で、結局3隻で
建造が打ち切られてしまいました。現在は廉価版のヴァージニア級が量産
されています。













ソ連のアクラ級潜水艦。アメリカのシーウルフは元々この艦に対抗するため
計画されました。それほどまでに、かつての常識を覆す高性能潜水艦だっ
のです。とはいえ、昨今の予算不足で実戦任務についてる艦は少ない
という話です。











ちなみにアクラ級には楽しいギミックが満載です。これは救命イカダの展開
ステム。パネルが外れると、中から折り畳まれた救命イカダが自重で落下。

海の上で自動的に膨らむという仕掛け。まぁ、これが機能するためには艦が
浮上していることが前提になるわけですが。






浮上できない場合の脱出方法がこちら。司令塔が分離
してレスキューチェンバーになります。これ全員乗れるの
かしらん。







これは船体内部に収納されている小型の補助推進装置。レッドオクトーバー
の無音推進装置を連想してしまいますが、おそらく湾内を低速で航行する時
など、舵の効きが悪い場合に使うのではないかと推測されます。






ではウォーターラインの展示に移りましょう。日本でもなじみ深いアメリカの
空母ミッドウェーです。右が改装前。左が改装後。中央エレベーターを廃止
して側面に移動するも、まだ足りずに増設。甲板をアングルドデッキに変更
して、スチームカタパルトを装備。新造した方がいいんじゃないかと思う
魔改造ぶりです。






実際、戦後間もなくの空母は第二次世界大戦当時のシルエットと現代の
空母の中間点という感じで実に面白いものです。レーダーなどの電子装置
類も大袈裟。艦載機も渋くて泣けてきます。






そんなアメリカ空母ですが、やはり試行錯誤を繰り返して現在の形になった
ことがよくわかります。艦橋アイランドが後方に移り、右舷のエレベーターが
前に2基、後ろに1基になっています。こうすることで帰還した艦載機を速や
かに格納庫へ収納できるようになりました。一方、左舷のエレベーターも後
に移り、左右両舷から艦載機を発進位置へと送り出せるようになりました。
こうした工夫が艦載機の運用効率を飛躍的に向上させたのです。





対するソ連空母のアドミラル・クズネツォフ。飛行甲板のド真ん中に対艦
ミサイルを搭載し、カタパルトではなくスキージャンプで艦載機を離陸させる
など、独自の設計思想と言えば聞こえいいものの、やはり当時のソ連海軍
の苦しい内部事情が色々と伺える艦です。






やはりソ連海軍は水上打撃部隊こそ花形。というわけでキーロフ級1番艦
と4番艦の比較。実際の艦の真上を飛ぶのは大変危険なので、それが自国
向けの宣伝目的だとしても滅多にありません。まして他国の航空機となると
警告射撃とかを受けます。そんなわけで模型の展示会ならではの眺め。
同型艦と言いつつも搭載兵器には細かな違いがあることがわかります。






もちろんトチ狂った兵器もあるわけでして。このエコー級ミサイル潜水艦は
その代表格。まぁ、前掲のレギュラスの後継者と言えなくもないのですが、
ミサイルは排気を逃がすために大きくエグれた船体とか箱型のランチャーが
丸ごと持ち上がるシステムとか、いろいろ斜め上。
さらに狂ってるのが誘導方式。模型でも再現されてますが、実物の画像。
なんと
セイル前部がクルリと反転して中からレーダーが出現。ミサイル
本体が
目標をとらえるまで、誘導電波出しっ放しで浮上していなければ
ならないのです。いやぁ……(エコーだけに)。
まぁ、血迷っていたのは米ソだけではありません。これはフランス海軍の
防空巡洋艦コルベール。ミサイル無し。バルカン砲もなし。艦砲射撃のみ
で対空戦闘を行うという漢のフネです。「加減しろ莫迦!」と。





さて、こんな狂乱の冷戦はいつから始まったのでしょう? ミンダナオ会の
展示はヤルタ会談と規定していますが、艦船の世界では1946年のクロス
ロード作戦ということになるようです。言うまでもなく、戦艦長門や様々な
艦船が標的艦となった核実験です。冷戦の時代は核の時代。それは現在も
続いていますが、この地上で遠慮なく核兵器を炸裂させる実験は、冷戦の
幕開けを象徴するものでしょう。展示はあえて武装類を外した、標的艦の
長門を想像したものです。





次の試練は朝鮮戦争。敗戦した日本は軍備を放棄し、戦争を否定したはず
でしたが、大国の思惑でその理念は早くも覆ります。1950年に朝鮮半島に
派遣され、機雷掃海にあたったのが日本特別掃海隊。この時、戦死者1名を
出していますが、これは第二次世界大戦最後の戦死者なのか、冷戦時代の
最初の戦死者なのか、考えさせられます。






さらに日本人と核兵器の関係はヒロシマ・ナガサキで終わりませんでした。
1954年、ビキニ環礁での核実験で生じた死の灰を浴びたのが第五福竜丸。
海外でも「ラッキー・ドラゴン・ナンバー5」で知られています。そしてドラゴンは
ゴジラと名前を変えて日本に上陸してきました。なお、実物の第五福竜丸は
東京・江東区の夢の島公園に展示・一般公開されています。







冷戦は、言葉だけでは、なんとなくおとなしい印象がありますが、現実
あと一歩でホンモノの全面核戦争を引き起こすところでした。1962年の
キューバ危機です。展示ではキューバにミサイルを持ち込もうとしたソ連の
貨物船レニンスキー・コムソモールを見ることができました。白いシートの
下にミサイルが隠されています。






米ソの深刻な対立は核の対立。原子力を制御する者が世界の覇者です。
というわけでアメリカがオラついてたのが原子力艦隊構想。空母だけでなく、
巡洋艦や駆逐艦、果ては輸送艦などもすべて原子力にしてしまおうという
ムチャな計画が実行に移されます。1964年、世界初の原子力空母エンター
プライズが原子力推進のみで世界一周の航海に出ます。随伴するのは、
これまた原子力のロングビーチ、トランクスタン、ベインブリッジ。しかし、
建造費の高さや維持管理のコスト高で、この構想は結局、ひとときの夢物語
で終わります。






そんな中、トンキン湾事件が起こります。1964年、ベトナム沖で情報収集を
していたアメリカの駆逐艦マドックスが北ベトナムの哨戒艇から攻撃を受け
て反撃。これを機にアメリカはベトナム戦争へ本格介入していきます。






1968年にはプエブロ号事件が発生。北朝鮮沖で情報収集をしていたアメリカ
の情報収集艦プエブロ号が朝鮮人民軍海軍に拿捕されてしまいます。今でも
プエブロ号はピョンヤンに係留され、米帝に対する朝鮮人民の勝利の
象徴と
して観光名所になっているそうです。






冷戦とは、あくまでも便宜上の言葉です。ガチの戦闘が無かった日は、事実上
ありません。1971年、第三次印パ戦争の最中、インド海軍のフリゲート「ククリ」
が、パキスタン海軍のダフネ級潜水艦「ハンゴール」に撃沈されます。これは
戦後初の潜水艦による戦果で、ハンゴールは現在もパキスタンで記念艦として
保存・展示されているそうです。






「日本が戦争を避けても、戦争が日本を避けてくれるとは限らない」
その言葉が現実になったのが山城丸の事件です。1973年、イスラエルと
シリアの間で発生したラタキア沖海戦の流れ弾に当たった貨物船山城丸
が炎上。犠牲者は出ませんでしたが、船は喪失しました。ちなみに攻撃
に参加したイスラエル海軍ののエイラートは、後にエジプト海軍の攻撃で
沈没。これは対艦ミサイルによる最初の戦果として知られています。






1968年、ハワイ沖でソ連のゴルフ級潜水艦が事故を起こし、沈没します。
艦内には核ミサイルと発射管制装置、暗号などがそのまま残されている
推測されました。CIAはこれらを回収しようと、潜水艦をまるごと引き上げる
大胆な作戦を立案します。名乗りをあげたのはアメリカ屈指の大富豪ハワー
ド・ヒューズ。彼はマンガン鉱石掘削船という言い訳でグローマー・エクスプ
ローラーを建造。1974年に船体引揚げに着手します。これは巨大なカギ爪で
船体をつかんで引っ張り上げるというアニメのような作戦で、表向きは失敗
したことになってますが、真相は今も不明です。






その頃、日本では海上自衛隊が試練に直面していました。これまた1974年
に発生した第十雄洋丸事件です。東京湾内で衝突事件が発生しタンカーが
炎上。どうしようもないので海上自衛隊が砲撃と魚雷によって撃沈するという
ものでした。問題はタンカーがなかなか沈まなかったこと。






艦船模型でふりかえる冷戦時代は以上です。なんか回を追うごとに画像の
枚数が増えているのですが、それでも沢山の力作を紹介しきれませんでした。
ちなみにこの画像は革命記念日のスペシャルペイント・・・というのはウソで
架空の設定です。でも、今のロシア海軍ならやりかねないかも。





今回はこんなところで。
でわでわ~。


































































































































































































































2017年1月21日土曜日

今日のソ連邦 1988年10月1日 第19号


どもです。
年始のご挨拶は別として、2017年最初の更新です。

さて、今日のソ連邦。まずは「党生活における新しいもの」「党の指導的役割の法制化」「「準備すすむソ連の法改革」などといった記事からスタートしています。

ゴルバチョフのペレストロイカが本格的に始動したことで、ソ連共産党の内部では、てんやわんやといった様子。特に党内部での選挙で選ばれる役職については、5年任期、連続2期までという決定が成されたことが大きな注目を集めています。

この一連のキャンペーンは事実上「すべての党組織を巻き込む大規模なものになる」と記事では述べています。それはソ連共産党内部にある73万におよぶ党員グループ52万以上の職場党組織、党の基盤を構成する44万2000の初級党組織4600余りにおよぶ地区、市、管区、州、地方の党委員会が含まれます。

当然、党の役割は大きく変化することが予想されますが、抵抗勢力はソ連憲法 第6条を持ち出して反撃に出ました。これは「ソ連共産党はソビエト社会の指導的・先導的勢力であり、ソビエト社会の政治体制、国家機関と社会組織の中核である・・・」との文言から始まる条文で、ソ連共産党が社会のあらゆる事柄に干渉し、すべてを指揮することで、強大な権限を合法的に手にすることができる根拠になっています。

これは当然、組織の肥大化と利権と腐敗を生み出したわけで、記事では、ソ連共産党を国家機関や経済機関の代役とすることをやめさせることが必要だと主張し、これを実現するために憲法改正の動きがあることにも触れています。

ペレストロイカはソ連の司法改革にも乗り出しています。かつてソ連の法律専門家の間では「裁判官は独立しており、地区委員会にのみ服従している」という笑えない冗談が流布していたそうですが、これを名実ともに完全に独立したものにしようというわけです。

また、弁護士の権限強化も盛り込まれました。ソ連の刑事訴訟では、弁護士は予審が終了してからでないと裁判に参加できない仕組みでしたが、これをもっと初期の段階から参加できるようにしようというものです。加えて、市民が気軽に法律相談できる「かかりつけの医師」のような「家庭弁護士」の制度を整備し、弁護士の増員と質の向上を目指すと記事では述べています。

これはペレストロイカによって大量の法的問題が顕在化したことに対する措置で、新しい経済運営形態の出現、、個人労働活動の急激な拡大、あらゆるレベルで進行しつつある民主化プロセスなどといった現象に、ソ連の従来の法体系が対応できなくなっていることの裏返しのようです。

さて、次は表紙にもなっている「弱者をいたわる社会を」という特集記事です。主として「児童福祉問題」がメインに据えられています。対外的には福祉大国を標榜していたソ連ですが、もちろん問題がないわけではなく、育児放棄や虐待などが普通にあり、そうした被害にあった子供たちを親から引き離し、収容する福祉施設が各地にあります。

記事の冒頭、筆者は「わたしたちの社会では、いつから他の者への思いやりがなくなったのか?」 と疑問を投げかけ、それは1930年代からだろうと述べます。言うまでもなく「スターリンの粛清」が始まる時期なわけで、密告と相互監視が日常になれば、そりゃ思いやりなんてなくなるというものです。

とはいえ、これを1980年代に当てはめるというのも無理があります。筆者は自分のもとに送られてきた一通の手紙を紹介しています。

「わたしたちの息子のワロージャはアフガニスタンで戦死しました。わたしは走り、叫び、這い、すべての人の足にキスをするでしょう。自分がずたずたに引き裂かれてもかまいません。息子が生き返ってくれるなら」
・・・これが母親というものなのだ! しかし世の中には違う母親もいる。

ソ連でも0才から3才までの孤児を預かる施設がありますが、本当の意味での孤児はわずかでしかなく、ほとんどは両親が健在であるにも関わらず、孤児同然にされた子供たち。親たちは大酒飲み、麻薬中毒などで、本来なら子供など持つべきではない人々です。

また、そこまでひどくないにせよ、学位論文を書くために年老いた母親を家から追い出し、何週間も子供を施設に預けっぱなしといったこともあります。ソ連では学生結婚が珍しくなく、出産する女性もごく普通にいるからですが、それだけに極端な事例も見られるということでしょう。

さらにアフガニスタンから帰還した傷病兵、チェルノヴィリ原発事故で住む家を失った人々など、助けが必要なのに国家の支援がない人々が大勢おり、国家の支援が追いついていないのが現状です。

こうした問題は、プロパガンダにも原因がありました。人々の意識に「すべてのソ連市民は生活が保証されており、幸福である」という言葉が、常識として浸透していたせいで、人が集まる場所に募金箱が置かれるようなことはなかったのです。
しかし、この頃から募金活動やチャリティバザー、寄付、ボランティア活動などが、ソ連社会でも当たり前になっています。

何も恥ずべきことはない。
わたしたちはやっと人間に顔を向けたのだ。

と記事では結んでいます。


のっけから固い話題になりましたが、この号は全般的にこんな感じの記事が多め。

さて、次はソ連の観光名所めぐり。
ロシアの古都「カリーニン」へご案内しましょう。 といってもカリーニンとは、本来なら革命家ミハイル・カリーニンのこと。この街は彼の出身地であることからソ連時代に改名されました。
元の名前は「トヴェリ」Тверь。1990年以降はこの「トヴェリ」に名前が戻されています。

モスクワの北西150キロ、ボルガ河上流にある街で、華やかで重厚な歴史的建造物が多く残ります。街を整備したのはエカテリーナ2世で、モスクワとペテルブルグを結ぶ幹線道路の途中にあることから、ふたつの都市に負けない景観となったそうです。

第二次世界大戦ではドイツ軍に2カ月ほど占領され、街は手ひどく破壊されますが、が、 戦後に復興。街の中心にはファシストからの解放を記念して、最初に市内に突入したT-34戦車が特別な台座にすえられてモニュメントПамятник танк Т-34】となっています。


次は「留学するユダヤ教の聖職者」という記事。
ソ連におけるユダヤ人の位置づけには面倒なものがあります。ロシア・東欧にはポグロムと呼ばれる迫害の歴史があり、ソ連時代にも偏見は根強くありました。

その一方で、ソ連共産党の指導部にはユダヤ人も多くいましたし、またドイツの絶滅収容所から多くのユダヤ人を解放したという武勇伝もあります。
しかし、中東問題についてはアラブ・パレスチナ寄りで、イスラエルべったりのアメリカとも敵対。とはいっても国内のユダヤ教徒に対しては、この記事で紹介されてるように気を使っていることも伺えるわけで、
ややこしや~。

さてまずは一般論。ソ連に生まれながら、よりにもよって信仰心に目覚め、自分の人生を宗教活動に捧げたいと考えた若者は、どこに行けばいいのか?

キリスト教の場合、ロシア正教では3つのセミナリオ(中等神学校)と2つのアカデミー(神学大学)があります。安息日再臨派では通信教育を受けられます。福音パプテスト派(いくつかの宗派を統合しているソ連の教会)では聖書講座を開設しており、ローマカトリック教会には、カウナス(リトアニア)やリガ(ラトビア)の神学校があります。

イスラム教は中央アジアのブハラにミル・アラブ・イスラム中等学校と、タシュケント(ウズベク)にイスラム大学があります。
グルジア正教会、アルメニア正教会、バルト諸国のプロテスタントもそれぞれ学校があります。

で、ユダヤ教ですが、こちらはモスクワのコラール会堂(シナゴーグ)にタルムード学院が置かれています。ユダヤ教の聖職者を目指す若者は、まずカントール(礼拝式の主唱者)になるため、このタルムードで3年から5年学び、その後、ラビ(ユダヤ律法博士)を目指します。

しかし、ラビの称号を与えることができるのはハンガリーの首都ブダペストにあるユダヤ教神学校のみで、ソ連からは海外留学という形になります。ちなみにイスラエルにも行こうと思えば行けなくはありませんが、大抵の場合は片道切符で、留学ではなく、亡命とか国外追放と呼ばれます。

この記事の主役であるアウレフ・カジエフは35才。妻と二人の子供がいて、父は織物工場の労働者、母は小売業の店員。現在はふたりとも年金生活者です。カジエフはタシュケントに4つあるシナゴーグのひとつで、ラビ代行者を務めています。

教徒たちはブハラ・ユダヤ人と呼ばれる人たちで、学術的には中央アジア系ユダヤ人と呼ばれます。12世紀頃、ブハラ汗国にやってきて、そのまま定住した商人たちの末裔だと言われています。カジエフは、もともとタシュケント大学地理学部の学生で、卒業後も修士課程にすすんで人口論の修士論文を書いていました。しかし、ある日、訪れたシナゴーグの聖職者たちがあまりにも高齢であることに驚き、後継者となる決心をしたのでした。

ちなみにカジエフは、すでに結婚していましたが、妻のマゾルは賛成は反対もしませんでした。賛成しなかったのは「今どきラビになっても若者たちの間ではそれほど名誉なことではない」からで、反対しなかったのは「夫の性格を知っていたから」だそうです。
この記事は、カジエフが出発する直前に書かれました。ブダペストでの留学生活は7年に及ぶのだそうです。

最後は極東の話題。
アムール河沿岸に居住する少数民族の人々が作り出す伝統工芸品が、ハバロフスクの展覧会に出品されたという記事です。
ナナイ人、ウルチ人、ウデゲ人、ニブフ人の作家が出品しました。写真の女性はナナイ人作家のタチヤナ・ホジュール。73才です。

1932年、彼女はナナイ人の定住地としてソ連政府に指定されたエモロンの地で結婚しました。婚礼衣装を作ったのは村一番の名人だった母のザラクタ。この時、タチヤナも伝統工芸を学ぶことになったのです。

しかし、幸せな夫婦生活は長続きしませんでした。1941年。夫のコンドは、ドイツとの戦争のために出征し、そのまま帰らぬ人となったのです。戦死公報には「あなたの夫、コンド・ホジュールはファシストとの戦闘で勇敢な死を遂げられました」という定型文がタイプしてあっただけでした。中央アジア出身のソ連兵の話はよく聞きますが、極東の少数民族までが徴兵されていたというのは、場合によっては民族消滅の危機もはらんでいたわけでイヤな話です。

今回はこんなところでしょうか。
でわでわ~。

2017年1月1日日曜日

謹賀新年

新年あけましておめでとうございます。
サボりまくりのブログでありますが、どうぞ本年もよろしくお願いいたします。
2017年が皆様にとって素晴らしい一年になりますように。


2016年10月1日土曜日

今日のソ連邦 1988年9月1日 第17号

どもです。あれよあれよと10月になってしまいました。
あれこれ色々なネタでお茶を濁してきましたが、心を入れ替えて、本来のネタに戻りますです。たぶん・・・。

 まずは奇妙な表紙から。一見、ヨットの乗組員ですが、何か変。船は港に係留されているのに舵輪を握っていたり、六分儀を持っていたり、双眼鏡であらぬ方向を見ていたり。実は彼らは「クレド」という名のロック・グループ。よく見ると手すりにグループ名のペナントが付いています。同名のグループはイギリスなどにもありますが、彼らはラトビア共和国のグループです。

 ラトビアの画家グナルス・クロリスがヒロシマをテーマに描いた「白いツルの国」という作品を見た同国の作曲家ライモンド・パウルスは、その印象を7つの曲にまとめます。しかし、これを通常のピアノや弦楽器で表現することには限界があると感じ、クレドのリーダー、ワルジス・スクイニンに相談したのだそうです。クレドは反核をテーマにしたロック組曲「叫び」を作り上げ、ソ連のバルト海沿岸地方で開催される音楽コンクール「リエバヤの琥珀」で発表したのだそう。

 今回、そんなクレドの楽曲を見つけることができました。1987年にリリースされた曲をここで聞くことができます。ソ連崩壊の混乱で活動を休止していたようですが、2000年ごろには復活したようです。現在どうなっているのかは不明ですが、ラトビアではかなり有名なグループのようです。


 次はモスクワで活動する児童美術アトリエ「創造クラブ」の記事。一般住宅を開放し、4才から12才までの子供たちを受け入れています。月謝は6ルーブルですが、子供が沢山いる家庭などの場合は免除されます。
 アトリエは毎日開かれており、年に2回、子供たちによる発表会が行われます。発表会では、必ずどこかの国がテーマになるのが決まりで、写真を見る限り、今回は日本とインドがテーマになったようです。
 ちなみにキャプションにある「あいびき」はツルゲーネフの短編を二葉亭四迷が訳したものらしいです。ロシアの文学作品なんだから、そのまま演じれば良さそうなものですが、わざわざ日本語に翻訳されたものをベースに、これまた日本風に演じるというのが面白いです。
 キモノとかメイクと小道具とかは、子供たちが独自に調べて工夫をこらしており、それ自体が学習というわけです。なかなか艶やかな雰囲気が出ていますが、それにしても小学生が「あいびき」なんて演じちゃっていいんでしょうか。

 次はスポーツ大会の話題。エストニア共和国のタリンで開かれた「女子ジョギング大会」の記事。これはエストニアの雜誌「ヌイウコグデ・ナイネ」が主催したもので、健康推進キャンペーンのひとつとして実施されました。
 このヌイウコグデ・ナイネという雑誌名、日本人にはあまり馴染みのない響きですが、実は日本版も出ていた「ソビエト婦人」のエストニア版です。綴りは「Nõukogude naine」。わたしも知りませんでしたが、エストニア語でソビエトはヌイウコグデというのですね。というわけでエストニア語でソビエト社会主義共和国連邦というと「Nõukogude Sotsialistlike Vabariikide Liidu」。略称もCCCPでもなければUSSRでもなくNSVLとなります。

 お次は前回の続き。第19回全国党協議会から。この大会は「官僚主義との闘争」と位置づけられ、記事にも「最悪の敵」とか「社会的偽善」とか、過激な言葉が並んでいます。もっとも改革にブレーキをかける具体的な個人名が名指しされているわけではなく、あくまでも「官僚主義」が槍玉。なんとなくどこぞの首都のお役所のような話になっております。

 そんな中、注目を集めたのが「他に道はない」という一冊の本。党協議会開催の直前にプログレス出版所から発行されました。著者は34人にも及び、その中には反体制物理学者アンドレイ・サハロフ氏の名前もあります。本文だけで700ページという大著ですが、「最近のソ連の本ではもっとも大胆で面白い」と、海外のソ連研究者からも注目された本です。

 記事ではその中のひとり、タチアナ・ザスラフスカヤのエッセーに焦点をあてています。エッセーといっても、この本の冒頭を飾るもので、約1万2000語という長いもの。その中で彼女は、ソ連市民を10の社会グループに分類し、それぞれが示している(内包している)ペレストロイカへの態度を、8つの立場に置いています。一覧表になっていますが、社会階層はなんとなくわかるものの、立場というのが、よくわかりません。本文によりますと・・・。

【先導者】というのは、言うまでもなくゴルバチョフに代表されるペレストロイカに積極的な指導者と、彼に従って率先して行動していく人たちです。

【賛同者】は似ていますが、ちょっと違います。多くの場合、大きな困難と失望を経験してはいるものの、自己の信念は変えていない人たちのことです。ソ連でも何度も改革が叫ばれたけれど、その都度、失敗に終わっています。それでも希望を失っていない人たちということでしょうか。

【同盟者】は改革の個々の側面、たとえば協同組合の拡充など、それまでのソ連社会にはなかったビジネスチャンスに個人的な興味は持っているけど、ペレストロイカ構想そのものにまで全面的な確信を抱くには至っていない人たちが入ります。

【擬似賛同者】は深い道義上の原則も、しっかりとした政治的信念も持っていない人たちのこと。彼らはどんな主人にも仕え、どんな真実も肯定し、上司からの好意と昇進が約束されるなら、いかなる課題もこなす人たち。「はいはい、ペレストロイカ。ペレストロイカね」って人たちです。

【傍観者】はペレストロイカは必要だと感じているけれど、ソ連社会にはそれを実現するための力も手段もないと考えている人たち。彼らはペレストロイカの賛同者にシンパシーを抱いてはいるけれど、彼らが勝利することはないだろうと考えています。

【中立主義者】はペレストロイカの対する自分の態度を決めていない、社会的に無気力な人たち。彼らは個人的な興味に没頭し、十分な文化的・社会的経験を積んでいません。中立という言葉が、まさに毒にも薬にもならない階層という意味で使われていますが、実際、ソ連では中立はあまりいい意味では使われない言葉だったりします。

【保守主義者】は言うまでもなく、ペレストロイカのもっとも大きな障害です。彼らは社会のあらゆる主要な側面で改革にブレーキをかけようとしてます。もちろん様々な特権や既得権益を享受している層でもあります。

 【反動主義者】は保守派と同様、ペレストロイカを受け入れようとはしていませんが、理由はもっと深いものです。保守主義者はペレストロイカに対抗してスターリン型の「兵営社会主義」を信奉していますが、反動主義者は、およそいかなる社会主義的価値観とも無縁の存在です。

 1980年代末期のソ連の社会の分析結果としてはなかなか興味深いものです。

最後はモスクワ放送の日本人アナウンサー、清田彰氏の記事。
ソ連最高会議幹部会令により民族友好勲章が授与されたという内容です。新聞のモスコフスカヤ・プラウダは、いつもの調子で「祖国の褒賞」という決まり文句で、このニュースを報じていますが、今日のソ連邦は「ちょっと考えれば見出しは別のものになっただろう。セイタ・アキラは100パーセント日本人なのだから」とチクリ。

清田彰氏は、1922年岡山市生まれ。父親は岡山市役所につとめる公務員でしたが、暮らし向きは楽ではありませんでした。1939年、山口市の商業高校1年だった時に軍に召集され、工兵連隊、歩兵連隊と渡り歩くうちに満州の長春にある主計学校に入ります。その後はソ満国境にほど近い連隊に異動。そして1945年9月にソ連軍と交戦状態に入ります。(今日のソ連邦、ちゃんと9月と表記してますよ。)
 最初の激突から数日後、彼は捕虜となり800人ほどの仲間とともに収容所へ送られます。近くにはアムール・スターリという巨大製鉄所があり、 清田さんたちは石炭やセメントの荷卸し、森林での伐採作業などに従事します。製鉄所が近くにあったということは、すでに鉄道が建設されていた地域だったわけで、その意味では幸運だったのかもしれません。

 清田さんはその間、ロシア語に興味を持つようになっていました。収容所の警備兵がマホルカ(きざみタバコ)の包装紙として使っていた新聞紙を拾い、通訳が持っていて辞書を借りて勉強を始めます。辞書は一冊しかなかったので、清田さんが勉強するのは通訳が寝ている時だけでした。
 そんな彼にソ連軍のボリソフ上級中尉が声をかけます。彼は温厚で親切で、捕虜たちとタバコを分け合いながら、ソ連のことを色々話してくれたそうです。
 清田さんはそんな彼に洗脳されの人柄にひかれ、あと半年で帰国できるというのに、ソ連に残る決意をします。ちなみに収容所から清田さんは何度も日本に手紙を出していましたが、返事は一度もなく、清田さんは家族はみんな死んだのだろうと思っていたそうです。
 
 1948年にハバロフスクの放送局に日本語担当アナウンサーとして配属されますが、原稿は自分で翻訳しなければなりません。彼は地元の子供と机を並べて中学校に通い、5年かけて卒業します。その後、30才になってモスクワ大学の経済学部に入学し、モスクワの放送局から日本向けラジオ放送をすることになります。
 この放送をたまたま聞いていた叔父さんが、清田さんが生きていることを知り、手紙を寄こします。家族は全員無事でした。しかし、その頃には清田さんはロシア人女性と結婚しており、娘も生まれていたのでした。それでも一時帰国を果たし、日本から家族を招くこともあったそうです。
 
 画像は映画に出演した清田さん。当時は日本人の役者なんてそう簡単に呼べるわけないですから、彼のような存在は貴重だったのでしょうね。探せばDVDが見つかるかもしれません。

今回はこんなところでしょうか。
でわでわ~。

六本木ヒルズ展望台 東京シティビューにて開催中の「空想驚異展」もよろしくです。